アンチ・ヒューマン・エデュケーション感想

アイドルが思い描いている"夢のステージ"ってあるな。
今日初めて実感した。

デレマスのアニメでニュージェネの三人が思い描いていたような(そんなシーンが本当にあったかどうかは覚えていない)光景ってあるな、と思った。立ちたいステージ、立ちたい場面というのが。ライトが当たってキラキラしていて

それを思い描くこと。

夢を持つことって意味あるんだろうか。夢を持ちたいなら持てばいいし、別に持たなくてもいいな。

教育を生業にしている人間なんてろくな人間がいないんじゃないかという気持ちだし、他人のことなんて分かるわけがないけど感じは良かった。

すぐに子どもから感謝されるような教育はしてはダメ、子どもが40歳50歳になってやっと結果が出るのが教育、という言葉が出た。
その頃には教育者達は死んでいるからそんなの分かるわけがない。
じゃあ教育の良し悪しなんて考えなくてもいいのかもしれない。
私が教育者に対して、教育に携わる人間に抱いているのは、教育者は良いか悪いか判断できない、わからないもの、良いとも悪いとも言ってはいけないものに対して、それが本心だろうと嘘だろうと、とりあえず「この教育は良い教育だ」と言う(言わなくてはいけない)仕事だからだろうと思った。

同じような理由で、脳が教育について考えたり、議論したりすることを拒む。教育を良くしようとする心理が果てしなく空回りするような感覚が、きっと教育に対する熱を奪って、動物として最低限の子育てさえもさせる気を奪ってしまうから本能的に避けているんじゃないかと思う。



まじで何も正攻法が無くて、自分でもどうしたらいいのかわからない、誰かじゃなくてもっと漠然とした、でも実体のある現実に直面する場面が教育で、教育を考えることは確かに人間を考えることに直結するんだけどわけが分からない。
わかった!今を考えるのはこれまでを考えることで、これまでを考えることはこれからを考えること。これからを考えることはこれまでを考えることでもある。そしてそれは全部今を考えることなんだ!
結局分からなかったという過去が分からないこれからを作り、これからが分からないからこれまでのことも分からないままなのだ。
0=0=0

考えていると疲れてしまう。
疲れてしまうなら考えないほうがいい。

これは正しい気がする。

最後に帰りの会のスピーチで俳優の人が無理やりスピーチを振られていた。「教育はやり直せるのか?」それに俳優の人が苦しそうに答えていた。「私は諦めたくない…」。
もうそれかそのまま教育なんじゃないかと思えた。教育の実態そのもの。

これまでのことも、これからのことも、分からない、ただ諦めたくないという精神しかない。

今は別に教育について考える必要は無いと自分では思ってるけど全部が全部別にそうでもなかったな。
私は幼いから直面したものにその都度対応していかなくてはいけない。もっと成熟した人間は時間的にも概念的にももっと広い視野を持てるんだろうけど私には分からない。

ずっと主観的に、内に閉じこもりたいとさえ思う。最近はずっとそうだ。心のシャッターを下ろしてしまうことが、心のシャッターの仕組みを理解するヒントなんじゃないかという勘を信じている。





演劇のことを少し振り返ってみると、演じられているのがキャラクターではなく人物としての圧倒的リアリティに最初はずっと混乱していた。何を見ているのかよく分からなかった。分かってきてもなんかよく分からない感覚を引きずっていて、具体的には何が虚構で何が現実なのか、その継ぎ目が完全に見えなくて、これはもしかしたら本当に起きていることなんじゃないかとか、楽しかった。

今回不登校の子どもに対してスポットが当てられていたけど、私がずっと気になっているのは、不登校だけど外には出てコミュニケーションも出来る子どもじゃなくて、もっとネット側というか、完全に家に引きこもってネットをやっている陰のこどもについてもっと何かしらヒントを得たかった。

不登校だけど農作業や虫取りやハロウィンや餅つき、それに勉強をしている子供なんて救う必要が無くて、もっとどうしようもない、ネットで動画を見続けることしかできない程に気力がなくなってしまって学校にも行けず家に引きこもったまま何も積み重ねずに50代になる子どもたちについて全く触れていなかったのは少し不信感を覚えた。

脳が色々なところに行ってしまうから個人的な思考と演劇の感想を行ったり来たりしてしまう。

どう生きる?