背伸びをする生物

最近っていうか今考えたことを書こうと思った。

 

大切なものなんて何処にも無くて、特に内側には何も無くて、例えば、その人を知ることで結局第一印象に戻ってきたりする。

 

表現、という言葉があるけど、表現って本当にする必要あるのかな?意味あるのかな?って少し思う。

 

ただ居るだけで、人間は常に表現し続けているんじゃないかって。ていうか、表現するまでもなくあなたはあなたのまま、この世界に居て、あなたを発揮し続けていて、それを誰も、自分も含めて、知らないだけ。もう表現するべきものは特に無いんじゃないか、とか。

 

前に、背伸びって詩だな、と思った。

 

ダンスというものがある。体を動かして何かを表現する。表現は声だ。表情だ。

背伸びも体の動きだ。背伸びはポーズだから表情があるし、背伸びという意味があって、いや別に無いのかも知れないけど、あんまりそこは重要じゃなくて、とにかく背伸びは詩なんだ、私にとっては。

 

それで、背伸びは大体は自然にするものだ。わざとすることもあるけど。

 

何もしなくてもそう振舞っている、まるで猫のような背伸びをする人間たち。

 

大事なものなんて、外側にも無ければ内側にも無い。その軸の上には無いんだろうなという気がする。もしくは自動的に、大切な瞬間、例えば大規模な災害や、密室に閉じ込められて死にそうな時、時間が無くなり、選択を突きつけられた時に自動的に発生する、絞り出すような声が

 

現実的な物事を考えるのは苦手だ。それは私が空想の世界に慣れ過ぎているからかもしれない。

 

空想の世界はとても豊かだ。一方、現実の世界は他人と食べ物やもっと決定的なものを奪い合ったり、時間に追い詰められたり、社会という水の上を泳がなくてはいけない、やることがとても多い。私は生きるの向いてないよ。空想の世界で生きても良くなってほしい。だからといって自分の想像力に自信もない。

 

しかし現実はとても自動的だ。自動的にピースが重なり合って、勝手に時間が連続していき、起こるべきことが起きていく。

 

その当たり前に自動的な、大きな星の流れの中に私の身体もあるのだから、私がどのように生きようが、私が何かを表現しようがしまいが何を考えて何をやったって、私は当たり前のようにただ存在し続けるし、勝手に何かを表現していて、私は何もしなくてもいい、まるで自動的なロボットの中に居て、ロボットが勝手に何かと戦ってくれているような感覚だ。

 

責任感が無いね。でも責任なんて誰も負わなくていいのが理想じゃない?

自分の出来ることを出来るだけやってるだけで、責任感が無いとか言われてもどうしようもないよ。苦しみたくないよ。

 

全てが総合的になっていく。平均値を取り出されて。だって誰でもいい中の一人だからそうなるさ。

 

普段親しいと思っている人たちが何を思っているのか、何も分からないよ。