映画パラサイトと最近のこと

パラサイトという韓国映画アカデミー賞効果で見に行ってきました。

ここからネタバレがあるかもしれない。



何個か考察とネタバレブログを読み、それなりにスッキリした(特に水石の意味については水石そのものがメタファーだったので解釈に迷っていた)。

あれは憧れの兄貴から渡されたもので、夢や欲望が詰まった装置だという話を見たけど、私は別の解釈をしていた。

韓国では水石は上流階級では当たり前に置いているもので、でも貧乏人には全く無用のもの。それを大事にしたり、それが災いをもたらすという映画上の働きに照らせば、私の解釈は間違っていたんだけど、書く。

あの映画で石が最も活躍する(目立つ)場面は、避難所で主人公の男の子が石をお腹に抱き、父からなんでそんなもの持ってるんだと言われても手から話さなかったシーンだ。

手放そうとしても、石の方からくっついてくるんだと言う。私はその時に、この石が執着の象徴だとは思ったけど、この石は家族に対する主人公の執着、想いなのではないかと感じた。
この映画に家族というものを深く感じていたんだ。

だから私は半地下の家族という邦題に弄ばれていたのかも知れないと今は思うんだけど、パラサイトというタイトルは、半地下の家族の家庭に対する執着と、家庭という構造がもたらすものとの関係のように感じられた。

いや、今思うと全く筋が通ってないけど、とにかく家族というものに興味をひかれた。
こういう心理を突いて付けられた邦題って感じだ。
私にとって最も身近な問題は家族で、家族について全く考えをまとめられていない。

家族が汚いかどうかを考える機会が最近あったけど、私自身がそこまで綺麗な人間じゃないから考えるのをやめた。

監督が言いたかったのは映画のような温かい家庭なんて幻想だってことだ、だけど私は結末の解釈に対しても楽観的な希望を持っていた。

父が疲れ果てて計画する力を失い、無計画に生きることを選ぶ。そして終いには地下に潜って息子に対して曖昧な希望を残して無計画に滅んでいく。それを息子が金持ちになるという無の計画で返答する。
この終わり方に本来感じるべきことは物悲しさだったらしいが、一人の日本国民が感じたのは空回りな希望だった。叶うはずのない願いに盲目的にすがること。

お前適当な希望にすがってるんじゃないよといくら言われても私の目は全然覚める気配がない。

実際とても優秀な妹は何かを悟ってるみたいに沈みかけの家の中で一人でゆっくりタバコを吸って、何かを悟ったようにさっさと死んでいった。何の芽も出ていない。そういうのを横で見てても、やっぱり何も感じられないんだよな。
(妹のキャラクターがとても好きだ。ああいう便利で有能な人間がいとも簡単に死ぬ映画は名作が多いからだ)

私達は同じ日本人の死にとにかく鈍感になった。いくら自殺者が出ようが過労死で電車が止まろうが気にしなくなった。そんな鈍った感受性ではこれからも現状を変えられない、そう感じた。

主人公は結局頭を打って家族を失って、これからどうなってしまうんだろうか。それから先は日本の行く末なのかもしれない。これからどうなるんだろう。

こういうことも別に真剣に考えられていない。
次に真剣に生きられるのはいつだろうか。それとも真剣に生きなくても生きられるように世界は変わりつつあるのだろうか。
真剣さとは何かと、最近よく考える。



この映画では格差社会がテーマになっていて階段や段差がよく登場するけど、それと関係があるのかの無いのか、この映画自体、まるでエスカレーターのように滑らかな作りになっていた。

この映画に対して、単純にエンタメ性の高さと、テーマを訴えかけることの上手さについては単純に驚き、喜んだ。
そして私が好きなタイプの、色々な要素を作品にギュウギュウに詰め込んだ映画だったから、とても気に入った。



一番この映画から個人的に得られたものは、社会と自分との距離感だ。
私は社会という言葉を聞いて、すぐに社会問題を意識する。しかし、いつも自分とはあまり関係がない社会問題を考えてしまうんだ。今の私が社会との関わりが薄いというのもあるけど、そういうことじゃない。私が社会との関わりが薄いことだって、社会的には意味のあることだ。

社会とは自分自身のことであると感じたし、これからは社会という言葉の使い方も変わる。
結局社会を書かずにパーソナルは書けない。それに気付かされた。

別にこれはパラサイトだからそう思ったわけではないが、パラサイトくらいに社会を噛み砕いた映画に出会わなければ思わなかったことでもある。

私は自分のことを書くのは得意だ。社会のことも、結局内面的な問題に置き換えればいいのだと感じた。