挨拶、マッサージ機、橋

■挨拶
私は積極的に挨拶をする人間ではないので、積極的に挨拶をする人について否定的で居る。
今日時間があったので、また、人が人とすれ違う度にこんにちはと言う様子を500回か1000回見たので、挨拶について考えていた。
まず、私が挨拶をする文化に対して否定的な根本的な原因は、私は成人しているにも関わらず、挨拶をする習慣が身に付いていない、世間的には駄目な大人の見本だからだ。
人から当たり前のように挨拶をすると、挨拶を返さなければいけない義務が生じるので、強制的に挨拶を返している。その時にほぼ毎回、私は何故挨拶なんてしているんだろう、という気持ちになる。
親しくない相手なら尚更そう思う。親しい相手となら、まあ親しいし挨拶するの嫌だけどするか、という気持ちになる。

神経が滅入ってきた時にふと思ったことだから本気というわけではないけど、挨拶する人間は挨拶しない人間の挨拶しない権利を奪っていると思った。

考えがあまり良くない方向にねじ曲がった結果、紆余曲折あって最終的にどういう結論に至ったかというと、もう挨拶を否定するのは私の個人的な思いであって、社会的に挨拶をすることが正しいという常識をひっくり返すようなロジックは私には組めない。
ただ私が、挨拶をするのが苦手な人間だから、挨拶できる人間が積極的に動いて、私のように受動的な人間を動かせばいい、声をかければいい、そう思った。



■マッサージ機
マッサージ機という装置は愛でできている。人を癒やし、心地よさを提供するマッサージ機は愛の行動者だ。
私を一生懸命癒やそうと頑張ってくれているマッサージ機に私も愛情を注ぎたいという感情を懐きそうになった。
機械萌えは、ここから始まるのかもしれない。



■橋

挨拶について考えて気が滅入っていた時、私は何キロもある長い長い橋をただひたすらあるき続けていた。
その長い橋はまるでWindowsXPの壁紙みたいな美しい平原にあって、草や花が生い茂っていて、所々湧き水や小池があって、微妙に安定しない立地の上に、木材三本を敷いて、それをプラレールのように長く長く真っ直ぐに繋げてあるものだった。

私はその橋の上を延々と延々と、一時間半ずっと歩き続けていたんだけど、段々と橋に苛立ってきた。
私は橋から落ちることが怖くてどうにかなってしまって、どうして橋なんかあるんだ、橋がなければ私は橋から落ちる恐怖なんか感じなくてもいいのに、と思った。
この美しい眺めが、橋にばかり集中して楽しめない。たまらなく忌々しい。
とにかく橋のことが嫌いになっていた。もう橋を歩きたくない。何故橋なんてあるんだ、と思った。

しかし、よく考えたら橋がなければ私は生い茂る草とぬかるみに足を奪われて私はろくに前に進めないことに気が付いた。この誰が作ったかも分からない、無限に続く橋がなければそもそも私は前に進めない。
私は橋から落ちる恐怖心で橋が私にしてくれていたことを、感謝を忘れていた。

感謝を思い出してからは橋に感謝しながら橋を渡ることを続けたんだけど、橋への嫌悪感も、橋への感謝も、今の私にとってはどっちも間違った感情じゃないように思える。

嫌だったら違う方法を探せばいいし、受け入れられるなら信じて進めばいいのだった。それだけだった。