小説「無能なる女王」1

「私は絶対に幸せだ」
女子高生、氷掴愛世(こおりづかみあいせ)は考える。
この静止したエレベーターの中で鎖に繋がれながらも、氷掴は己の絶対的な幸福を信じていた。

エレベーターとこの世を繋ぎ止めるワイヤーはもうじき千切れ飛び、この脆弱なる鉄の箱は氷掴を潰して殺すだろう。
今手足の自由を奪われて全く身動きが取れない氷掴は、世界を敵に回して暴れまわった胃能力集団『内なる惑星』のリーダーだった。

内なる惑星は20名前後の胃能力者により構成されている。
全員、『王の傷』または『ナードキャット』と呼ばれる違法な感覚毒…つまりは現実改変能力を手に入れていた。そしてその力を自分や誰かのために使わなかった。勿論内なる惑星のことさえも考えす、ただひたすら、現実改変を行い続け、そして結局、世界は何も変わらなかった。内なる惑星のメンバー同士の能力の中和によって、世界は調和されていた。

ただし。内なる惑星の中心人物、氷掴はそんな能力を持っていない。能力どころではない。氷掴は何も特別なものを持っていなかった。

エレベーターにはクーラーが効いていた。氷掴も半袖の制服を着ている。今は夏ということだろう。死刑にも季節くらいはある。

突然エレベーターの壁がトランプタワーになって吹き飛んだ。パラパラと、壁だったトランプが床に散らばる。
氷掴がそのトランプを目で追いかけて自分自身の手足を見ると、鎖は最初から無かったように、完全に消滅していた。

エレベーターに空いた穴の向こうに、長身のスーツの男が立っている。二十代前半の、細身の、細目の男。顔立ちは整いすぎているほど整っている。
男は音無恩(おとなしおん)という。

「氷掴さん、迎えに来ました」
「うむ、助かった。と、言えばいいのかな」
「とりあえずここを出ましょう」

音無は氷掴を抱きかかえて、エレベーターの外、使われていないオフィスの椅子に氷掴を座らせた。

「音無、水を買ってきてくれないか」
「今持っていますよ、氷掴さんは手に、既に」
氷掴は自分の手に目をやると、既にいろはすを手に持っている。

「ありがとう、やっぱり手品だな」
「分かっているでしょう、現実の改変ですよ」
「そうか、お前は"ダイレクト"だったな。でもトランプといい手錠といい、私は手品だと思うね」
「手品は嫌いです、あんなもの嘘じゃないですか」
「嘘でもいいじゃないか」
ごくごくと喉を鳴らして、氷掴は水を一気に飲み干した。

「氷掴さん、いつもいつもこんなことになって、面倒くさくないんですか?俺達みたいに、すればいいのに」
音無はちらと氷掴の手首に目をやる。少し赤くなった手錠の跡がくっきり残っている。現実改変を行えば。"力"を使えば。そんなものは初めから無かったことにできる。音無は、ゆっくりと氷掴の顔に視線を移す。他の女子高生より少しかわいいくらいの、本当にただの女子高生だ。

「私は、いらないよ」
「『人間』、だからですか、やっぱり」
「そうだよ。それで十分なんだよ、犬じゃないから本が読めるし。いや、二足歩行できるだけで、もう十分だと思う。二足歩行はペンギンにも出来るか。まあ、私は人間だよ」
「俺だって、人間ですよ、他のやつも」
「勿論分かっている。そんなことが分からないほど私は愚かだと思うか?君は。何回も言っているだろ、私もお前も他のやつも、みんな人間だよ」

音無も何処からか缶チューハイを取り出して、飲み始めた。一口飲んで、そして、次の瞬間にはもう缶は消滅していた。どうすればいいのか分からない時の音無の癖だ。アルコールも、音無の体内で消滅する。

「人間を越えたい。それが人間じゃないんですか」
「色々いるからな、私はそうじゃなかった」

氷掴は飲み終わったペットボトルを「ん」と言って音無に手渡す。
音無は、ペットボトルを少しの間見つめて、消した。

つかつかと歩き出した氷掴を音無が慌てて追いかける。

「リーダー」
「ん?どうした」振り返らないまま氷掴は答える。
「何処へ…」
「家だよ。誰にでも家はあるだろ。帰って寝る。今日は疲れた」
「…」

誰が決めたわけでもないが、内なる惑星のメンバーは氷掴に対して直接的に胃能力を使わなかった。
例えば、氷掴が風邪を引いたとしても、それに手を加えて氷掴の風邪を治すようなことは、誰もしない。

「ああそうだ」
つかつかつか。氷掴が階段を降りながら言う。音無が追いかける。
「梅雨計画についてだけど」
「はい」
「三日後だ」
「わかりました」

音無は、立ち止まって、氷掴の背中を見た。
そして、紙吹雪になって消えた。

つかつかつか。ビルの出入り口の扉。鍵はかかっていなかった。恐らく音無だ。

「やっぱり手品なんだよな、あいつのは」