勝子さんについて その2

今は2019年4月10日。あと1ヶ月で勝子さんが亡くなった2018年5月10日から1年が経つ。

また前回のエントリーと同じく、今の率直な気持ちから書き始めると、やっぱりまだ勝子さんって生きてるんじゃないかって極僅かに思っている。
勝子さんの実家に伺ったり、他の友人と勝子さんとの思い出話を沢山しても、それはそれ、これはこれで、やっぱり突然また現世で会えるんじゃないか?って少しだけ思っている気がする。

私が漫画を書くことについて、勝子さんはとても良い読者だったと何度も感じるし、それは他の人にとってもそうだっただろうと思う。勝子さんはいい客だった。
前回も書いたかもしれないけど、勝子さんが居なくなる前後に、漫画は描く人が作ってるんじゃなくて、半分以上は読者が読むことで初めて完成するものだなと思うようになっていた。
勝子さんはとにかく感想を沢山くれた。そういう存在は貴重だ。

創作に関しては、勝子さんの創作物をもっと読みたかった気持ちが強い。クリエイターが死ぬと、その人が作るものをもう見れなくなるのがつらい。
そういう気持ちもあって、私は常に毎回毎回、人生をかけて漫画を書く。物を作る。
勝子さんのパラマインドナッシングネスシリーズ。どう展開していくのか期待していた。キャラデザまで終わっていたのに登場しなかったキャラクターや、話だけ聞いて作品にならなかった挿話、進行していた企画。
勝子さんの創作物は、全部かき集めて勝子さんの妹さんとお母さんにお渡しした。それで良かったと思う。
勝子さんは「このまま何も成せないまま死ぬ気がする」みたいなことを憂鬱そうに言っていたけど、勝子さんは決して何も成していないとも思わない。不十分ではあったけど、勝子さんは勝子さんの人生をちゃんと生きたと思う。
関わった人たちに影響を与え続けていた。それはすごいことだ。すごい存在感だ。その存在感が今も消えない。
少し過去のことを思い出せば、すぐに勝子さんの存在が浮かび上がってくる。勝子さんの話を避けて過去を語るのが不可能に近い。
私や、共通の友人も、それに慣れてきたと思う。そうして少しずつ勝子さんが死んだことを受け止めようとしている。まだ時間がかかると思う。

影響といえば、勝子さんの家で少し話したけど、人生においてろくに父親や兄や男の先輩を手本に出来なかった私にとって、勝子さんだけが男としての手本だった。勝子さんは私をかわいがってくれていた。手本だったのは今でも変わらない、今でも勝子さんのような存在感を得たいと思うし、人間関係を作っていきたいと思う。
勝子さんが知らない人たちのオフ会に突撃しようと言った時、私がなんとなく渋ったら、「いいんだよ喧嘩になったらもう会わなきゃいいんだから」と言っていて、なんか適当な人だなと思ったんだけど、そして今でも適当だなと思うんだけど、それくらいしないと人脈なんて広がらないよなとも思う。

勝子さんがいなくなってから、色々な人と親しくなった。悪く言えば勝子さんが居なくなって空いた穴を塞ぐ作業をしている。しないわけにはいかなかった。とても自然にやっている。
動機がどうであれ、友人たちと今までより深く関われるようになったことは良いことだった。

サブカル的なことは、かなり勝子さんの影響が大きい。
勝子さんとの出会いのきっかけは模造クリスタルだったけど、もぞくりの話も結構した気がする。
テケテケっていう居酒屋に行ってもぞくりの話をした。
「テケテケってあれだよ、ほむらちゃほむほむ(まどマギが流行っていた頃のMAD)の曲とかをテケテケって言うんだよ」と教えてもらった。
さよなら絶望先生のOPの林檎もぎれビームがオーケン大槻ケンヂ)ファン筋肉少女帯ファンにとってどれだけすごい曲かという話も聞いた。それは正直よくわからなかったけど、まぁすごいんだなと思った。
私が、設定を作りまくってクトゥルフ神話みたいなものを作りたいと言ったら、「もぞくりの僕殺魔法少女はあらゆる二次創作を許容する世界観だからクトゥルフ神話なんかよりも強いよ」と聞いて唖然としたのを覚えている。続けざまに、勝子さんから僕殺魔法少女の男の娘の話を聞いた。
小さい頃に幼馴染をレイプされて、それを後でエロ本を読んでどんなことが起きていたのか理解して、自らインポテンツの魔法少女になってAVプロダクションを壊しまくる。そして最終的にその子が死ぬんだけど、コナツは頭がいいからそうなることを分かっているんだけどモリタは頭が良くないから分からない。っていう、多分もぞくりのお絵かき掲示板の内容を勝子さんから聞いて、泣いてしまった。

駕籠真太郎の原画の展示に行って、勝子さんが大好きなページがもう売れちゃってて悔しがったこととかあった。六識転想アタラクシアのページ。後でその本を読んで私もそのページが欲しくなった。
私はその時別のページを買った。
その時にカゴシンファンのギリシャ人の友達のデミトリも一緒だったんだけど、その時の勝子さんの服装がパジャマだったためにそれから勝子さんはデミトリからパジャマくんと呼ばれ続けることになる。

さよなら人類という映画を私と勝子さんと清水ニューロンの三人で観に行って、退屈だけど良い映画で、私が「あの時間は人生に必要な時間だったよね」と言ったら勝子さんが喜んでいた。その後、アマゾンビデオに入ったさよなら人類を他の友人に勧めていたと聞いて、気に入ったんだなと思った。

ツイッターで一時期、勝子さんがパスタ茹で太郎を名乗って村上春樹のロールプレイをし続けるっていうことをやっていたんだけど、私が「パスタ茹で太郎面白くない」と言ったら「俺だってやりたくねえよ」みたいなことを言ってたんだけど、あれは本当に何だったんだろう。多分何かの罰ゲームだと思う。勝子さんは罰ゲームとかそういうのが好きだ。誰かが苦しむのを見るのが好き。

アーバンギャルドを知った切っ掛けも確か勝子さんだった気がするけど、よく覚えていない。

勝子さんは幾原邦彦が好きだったんだけど、私はその頃まだ幾原邦彦がよく分かってなくて、勝子さんが死んでからユリ熊嵐を見たら若干分かるかなくらいの感じだった。ウテナピングドラムはよく分かってない。
ピングドラムについては大好物だから、嬉しそうに「あのアニメはミスリードがめちゃくちゃ多い」という話をしてくれた。

勝子さんが演劇に連れて行ってくれたことがあった。勝子さんの友達の朽木さんが演出をやっている演劇があると言うので、一緒に行くことになった。その時は幽霊と王国を観た。その前後に、勝子さんと朽木さんとよく会うようになっていたと思う。
勝子さんの実家にお邪魔して聞いた話で、勝子さんが高校の頃から演劇部で主演と監督をやっていたというのを知った。大したバイタリティだと思う。
それ以降、私と朽木さんは仲良くしていて、今でも朽木さんの演劇を見て刺激を受けているし、面白そうな演劇を教えてもらって一緒に観に行ったりする。

教えてもらったことと言えば、初めてコミティアに参加した時に、私は80ページのコピー本の原稿を持っていって、勝子さんと汐留のキンコーズに初めて入って、当日製本をした。
何もわからなかったから、プリンターに紙が入っているのも知らなくて、印刷する分のA3用紙を印刷代と別に購入した。その紙が未だに家にあるんだけど、勿体無いから捨てるわけにも行かず、そのままある。
汐留のキンコーズには当日製本のときには今でもよく行く。

友達数人とよく焼肉に行ったり、その帰りにカラオケでオールすることがあったりした。その集まりに勝子さんもよくいた。
居酒屋で色々話をした気がするけど話の内容を今急には思い出せない。
最近は、勝子さんをオールに連れ出しても寝てばっかりいた。ちょっと前は一緒に漫画描いたりしていたんだけど。

プリパラが流行った時は一緒にプリパラをやったりしていた。トモチケをパキりあい、プリパラ内で一緒にダンスしたりした。
プリパラについては二次創作の小説も書いていたし、相当気に入っていたんだと思う。勝子さんが死んでから勝子さんがプリパラ原稿を寄稿したソラリス合同誌を読んだんだけど、出来はかなりよかった。ソラリスがプリパラにアイドルとして現れるのか?という話。
あとアイドルにならなかったあろまとみかんがニコニコ超会議?を爆破する話も書きたがっていた。
私がプリパラに興味を持つようになった切っ掛けも、勝子さんからプリパラはヤバいという話を聞いて、なんか「地面はお布団なの」とか言って地面で寝始めるアイドルとか出てくると聞いたのが始まりだった。
勝子さんが気に入ってたのは、ひびきにボーカルドールになって欲しがっていたファルルにふわりが「パルプスの花も綺麗だよ」と言うシーンだったんだけど、ちょっと私があまり理解できていないので詳しく話せない。

勝子さんはアルコールで死んだけど、ビールは本当に好きだった気がする。
さよなら人類を観終わった後にビール、ドイツ料理を食べに行ったらビール、飲み会でもビール、焼肉屋でもビール、とにかくビールを飲みまくっていた。ビールの何がそんなに良いのか。

勝子さんが死んでから、死について考え方が変わった気がする。
死んだらただ肉体が無くなるだけという考え方から、人が死んだ後も世界が続いていくことを考えるようになった。自分が死んだあとも生きていく人たちのこと。