「能を捨てよ体で生きる」感想

今日見たオフィスマウンテンの「能を捨てよ体で生きる」という演劇(?)が面白かったので感想を書く。書こうとする。

多分私は感想を書けない。
自分で何を見たのか言語化出来ない。
見たほうが早い。

作・演出・振付の山縣太一さんは、元々俳優として(ダンサーとしても?)活躍していて、演劇における俳優の重要性などを考えていくうちに演出などもやるようになった人らしくて、演劇が嫌いだとも言っていて、もうその時点で他の演劇とは違うのが分かる。

まず、見たものをそのまま書く。記憶違いがあるかもしれない。

まず普通の演劇のように、観客の席の後ろから眼鏡をかけた普通の役者が舞台に出てきて、間違えて舞台に出てきてしまったような、私はこの演劇について何も知らないといったような態度でふらふらと歩いてきて、舞台に立って、客席を眺める。何も言わずただ見ている。

二人目も三人目も四人目も最初は同じような態度で出てくる。何も言わない。ただ客席を眺める。他の役者を眺める。

合計四人出てくる。
眼鏡をかけた古着の青年、眼鏡をかけたおじさん、エキゾチックな顔立ちをした背の高い半袖短パンの眼鏡をかけた背の高い青年、眼鏡をかけていない小柄な女性。

役者は舞台に出てくると、変な動きをする。手を無理やり後ろに持っていこうとしたり、足が何者かに引っ張られているように踵を伸ばして床にこすりつけたり、壁を這うように張り付いたりする。
変な動きについてはバリエーションが多すぎるので列挙出来ない。単調ではなく、ゆっくりとしていて、自由で、また、苦しんでいない、放牧された動物のような、感情のない動き、右腕を左腕の位置に無理やりずらそうとするような無茶なバグった動き方をする。
酔っ払い、タコの動き、子供のごっこ遊び、バグったゲームのキャラクター、壊れた凧、壊れた傘、イソギンチャクやクラゲやクリオネ、軟体生物、実在しない動物のモノマネ、のような動きをする。

基本的には古着の青年とおじさんがひたすら無限に動き続けて、背の高い青年と女性は立っていることが多い。

そして四人はたまに台本の台詞を喋る。台詞は少ない。
最初の台詞は四人が円になって発されるけど、誰が喋っているのかは分からない。
自分の話や、バイト先での出来事?や、脳の命令を無視することや、SNSは体がない、体がなければ言葉もない、みたいなことを言う。

途中で役者の休憩(?)がある。おじさんが体を自由に動かすのをやめて水を飲んで、他の三人が変なポーズをしたりしなかったりしている間舞台はだんだん暗くなっていく。

また明かりがついて、変な動きを始める。

脳からの何らかの信号を拒絶している体だけで生きている人のように体をめちゃくちゃに動かす。コンテンポラリーダンスとも違う変な狂った動き方をする。

四人が変な動きをしているのを60分見ると演劇が終わる。



感想。

基本的に動きに意味があるように考えるのは無駄な気がしながら見ている。ただ、生きているものなんだな、と思う感じで。自分がこれを見せられている意味や、あぁ、能を捨てて体で生きるってこういうことか、とか思う。体かぁ。と思う。
能とは何で体とは何を指すのか、見た人間なら大体分かると思う。それを考えることはあまり重要じゃないように感じることができる。

体、人の身体がゆっくりと狂った動きを延々やっている様子はAIが作ったLSD服用者の幻覚のような悪夢みたいな動画に似ていて、場面場面、動きと喋っていることによって色々と連想する。

人が生きて体を動かしている光景を、私たちは色々なメディアで、色々なものとして見る。

ある時は演劇として役者の体の動きを見る。ある時はお笑い番組の芸人の動きとして。ある時は映画の中のダイナミックなクライマックスシーン。ある時はサーカス。ある時はダンス。ある時は仕事。ある時は遊び。日常生活でも様々な動きを見る。

そのどれとも分類できない、謎の文脈でこの演劇の体の動きはくり出される。
動きを見ながら色々考えて、また違う動きがされて、客は、役者が生きていて動いていることを知ることができる。

息が苦しくなるくらい笑った場面が二箇所あって、一つが、古着の青年が背の高い青年の顔の前で台詞を喋っている時に、直立していた背の高い青年が山に叫ぶようにアァァァァーーーッ!!!と叫んだ場面。突然彼の何かが終わってしまったような声だった。

もう一つが、古着の青年がおもむろに眼鏡を外し、おじさんの眼鏡に向かい合わせ、おじさんが空中の眼鏡に孔雀のような、動物の求愛行動のようなモーションを取り始めた場面。
眼鏡の場面はエスカレートして、おじさんも眼鏡を取って眼鏡を空中に浮かせて自分はタコみたいに這いずるし、最後には背の高い青年までも眼鏡を外して空中に浮かせて、もうめちゃくちゃな状態になる。眼鏡と眼鏡が踊っている。故意にかは分からないが、おじさんは眼鏡を床に落とす。

これを見たときに一分ぐらいずっと引き笑いをして震えていた。
眼鏡をネタにするものがとにかくツボで、しょうがなかった。

この時、明確に、今自分はこの動き・この状態をコント番組か何かの文脈で見たのだな、と分かったし、この演劇を自分の中の既存のカテゴリーの箱の中に収めてはいけないという危機感を強く持った。

カテゴライズされることに対する拒絶が、この演劇全体から感じられるからだ。もっと別の何かとして受け止めて、簡単には消化しないようにしようと思った。「面白い演劇を見た」の一言で片付けてはいけないと思った。

それと同時に、面白いと感じる感性の在り方についても、若干のヒントを得られた。

簡単に言ってしまえば、この演劇は四人の役者が変な動きをして少し台詞を喋る、たったそれだけのことをやっているのだ。なのにちゃんと面白い。それは何故かと考えた。

私自身は、能を捨てることは出来ないな、と思った。