奇抜なものから人間へ

イグジステンズを撮っていたが次第に過激な描写は鳴りを潜めて普通の人間のヒューマンドラマを撮るようになったクローネンバーグ、奇抜なストップモーションアニメなどを大量に撮っていたがルナシーなどを撮っていき今では虫を撮って初期のストップモーションアニメよりもただの人間を撮る比率が大きくなったヤンシュヴァンクマイエルなどを見ていて、
奇抜なもの、ビジュアル的にインパクトのあるものを撮る作家が徐々に普通の人間を撮るようになっていくその変化について、考えていた。

ホドロフスキーは、今も昔とあまり変わらずに変な映像を撮っているが、初期の頃に比べてインパクトは薄くなってきた印象がある。

昨日今日で観た映画、散歩する侵略者と映画響、そしてヨーロッパ企画の暗殺司令Xを観ていて思ったのが、平凡な風景やどこにでも居そうなただの人間を撮っているだけでも、設定を付け加えるだけでいくらでも、作品は無限に面白くできるということだ。

どんな作家も、物を作り続けていくうちに「本当に面白いもの」とは人間そのものであると気付くのかもしれない、そういう必然的な流れがあるのかもしれないと感じる。それは映像的にも、物語的にも、そうなんじゃないかと。

私も漫画を書き続けていて、そういう感覚になることがある。昔はもっと、ビジュアル的にインパクトのあるものが書けた気がした。でも今や、人間を書くことばかりに集中している。本当に面白いものは他人なのだと、他人の面白さに気付きつつある。

でも私にもまだ、イグジステンズのような衝撃的なビジュアルや、ヤンシュヴァンクマイエルのグロテスクさや、サイレントヒルのようなグロテスクな世界観に単純に惹かれる気持ちは失われていなくて、葛藤している。

私は面白いものが作りたい。面白いものを作るためなら自分の中の変化も丁寧に受け止めていくつもりだ。面白いものが作れるならなんでもやりたい。変わってゆきたい。

でももしこれから、奇抜なものへの興味が失われていくとしても、この若い頃の、純粋な、奇抜なものへの単純な興味、憧れ、好奇心、渇望を忘れたくはない。あらゆる若さを失いたくない。でもそれは次第に失われていく。

納得したい。納得して作品を作りたい。作品を作って納得したい。
これからどんな場所に行き着くとしても。