天井桟敷の人々 感想

天井桟敷の人々を観ました。一回目は渋谷のTSUTAYAで借りて、観ないまま返してしまったんだけど、二回目はちゃんと観れました。
めちゃくちゃ面白かったです。何よりも、敷居が全然低かった。大体の映画を理解できない私にさえ面白さが分かった。
 
私が天井桟敷の人々を観た切っ掛けは、寺山修司天井桟敷の人々から天井桟敷という劇団を立ち上げ、その演劇に幾原邦彦が影響を受けているということを知って、元ネタを観たくなったからです。
 
以下、ネタバレがあります。
 
 
 
 
 
あらすじについてはWikipediaに載っているのでそちらをご覧ください。
 
【タイトル】
【人間模様】
【浅い面白さ】
【深い面白さ】
 
 
【タイトル】
邦題は「天井桟敷の人々」、原題は「天国の子供たち」らしいのだが、どちらも良い。が、タイトルの明確な意味だけは映画を見ても分からなかった。
 
自己流に解釈すると、この映画を楽しむ上で、天国に居るような目線で、登場人物たちの激しい愛や執着、友情、変化などを見て楽しんで欲しい、といった意味で付けられたのではないかと考えている。
 
 
 
【人間模様】
まず、この物語の主要な人物の関係性。私は群像劇やハーレムモノや、とにかくキャラクターが沢山出てくる作品が苦手(自分の漫画では大量のキャラクターを出したりしてしまっているが)で、この映画は理解出来ないと思っていた。
が、登場人物の個性が強く、各々の人物の感情も素直に読み取れたため、殆ど混乱はしなかった。とにかく敷居が低い。
 
■愛
ナタリー←→バチスト→ガランス :劇団員のナタリーは無言劇のカリスマ=バチストを想い、最終的にバチストと結ばれて男の子をもうける。が、バチストの愛が絶世の美女=ガランスに向かった時はバチストの目を一目見ただけで分かってしまう。バチストは所帯を持ち、仕事で成功し、幸福を手に入れたにも関わらず美女、ガランスを愛してしまう。この映画は、謝肉祭の人ごみの中、バチストがガランスを追いかけ、もみくちゃにされるシーンで幕を閉じる。
 
フレデリック→ガランス(愛?) :後で思い返してみて、名俳優=フレデリックはただの女たらしで、ガランスに対しても特別な愛は抱いていなかったらしい。
 
悪人(ピエール)→ガランス :悪人のピエール(偽名が複数ありその一つ)はガランスとの古い友人であり、最後まで悪人として物語を掻き乱していく。そんな彼も、ガランスに執着があるからこそ、そういった行動を取ったのではないか、と考える。最終的に伯爵=ガランスのパトロンを刺し殺す。
 
 
伯爵→ガランス :単純なパトロンと支援される側の人、という関係であるが、伯爵もガランスを宝石のように手厚く愛しており、ガランスの愛が自分自身に向かわないことについて怒りを持っている。
 
■友情
バチスト←→フレデリック :舞台となるフュナンビュール座で共演して以来、親友となり、お互いに大成功してもその関係は続く。
 
■殺害(or決闘?)
フレデリック→作家(?) :原作をつまらないと感じたフレデリックにより、演劇は作家たちの意図とは全く異なるものに改変され、観客は大喜びする。しかし作家たちは怒り心頭、フレデリックに決闘を申し込む。明確な決闘の描写は無いが、その後フレデリックが生き残っているため、作家は決闘に敗れた、と思われる。
 
悪人→伯爵 :最終盤に悪人は伯爵を刺し殺し、風呂に沈める。悪人の考えていることは基本的に分からないため、何故殺したのかは明確には分からないが、ガランスが関係していることは間違いない。
 
■執着
古着屋→バチスト :浮浪者のようによたよたと歩き何処にでも出てくる古着屋のおっさん。出てくる度に自称が変わるのが面白い。古着屋はバチストというよりはフュナンビュール座に執着しており、フュナンビュール座が古着屋を刺し殺して終わる無言劇を公演し続ける事に対して「私をモデルにして馬鹿にしている!」と怒鳴るが、軽くあしらわれる。
 
悪人→ガランスに関わった全員 :前述の通り、悪人はすっかり変わってしまったガランスと、ガランスの関係者に対して執着心を持っており、それが積もりに積もってガランスを変えてしまった直接の原因である伯爵を刺し殺したのではないか、と推測できる。
 
 
 
 
【浅い面白さ】
 
この映画には、万人に通用するエンタメ的な「浅い面白さ」と、人生をかけて考え抜かなければいけない程重厚な「深い面白さ」を兼ね備えており、二部構成のうち一部が比較的浅く、その何年後かの二部は深い面白さに満ちている。
 
・パントマイム
まず、この映画に心を掴まれた瞬間は、父親から白痴同然と呼ばれて何もせず、ただ死んだ目をして樽に座っているだけのバチストが、時計を盗み取った濡れ衣を着せられたガランスと民衆に対し、「全てを見ていました」と言い出し、パントマイムで無実の罪を晴らすシーンだ。
その後、ガランスはバチストに花を投げて渡す。
 
このシーンは本気で笑った。チャップリンは見たことが無いが、こんなに面白いパントマイムを観たのは人生で初めてだ。
 
・花
その後、舞台が酒場に移り、悪人の子分とバチストが喧嘩をするシーンの後、バチストが「花を投げてくれた」と話すシーンがあり、ここであのパントマイムで女を救った人がこのバチストなのだと知り、余りにも色男すぎてびっくりした。
 
・首吊り紐
フュナンビュール座での無言劇で、バチストが演じる白い男が自殺するための紐を木に掛けようとするシーンがある。このシーンに突然少女が登場し、その紐を貸してくれとねだる。白い男は紐を貸してやると、少女はそれを使って縄跳びを始めた。
死ぬなんてばからしい、子供のように遊ぼうではないか、というメッセージを感じる。
 
その後、また白い男が自殺しようとした時、今度は洗濯物を抱えた女が現れて、物干し用にロープを借りたいとねだってきた。この女はナタリーが演じている。白い男はロープを貸してやり、ロープの片方を木に縛り付け、もう片方を白い男が持って洗濯物を干し始める。
すると、白い男を演じているバチストが、舞台袖で仲良さげに会話するフレデリックとガランスを見てしまう。バチストはそれを見て、恐らくは嫉妬の、冷たい目線をガランスに送る。
 
その目をナタリーが見た時、全てを悟り、無言劇の中で遂に叫んでしまう。「バチスト!!!」
 
どよめきが起きる中、無言劇は続行される。だがバチストは我には返らない。完全にガランスに恋に落ちているのだ。
 
その後、彼女が声を出したことについて団長(?)が「罰金3フラン!」(現在3フランは338.95円だが、当時いくらだったのかは分からない)と言う。何かあるとすぐに「罰金3フラン!」と言うのが面白くて、私の今年の流行語大賞にノミネートされた。罰金3フラン!
 
 
 
第一部が終わり、第二部。
 
 
 
第二部では時間が飛び、様々な変化が起きている。
バチストは無言劇の名俳優となり、ナタリーと結婚して男の子をもうけている。フレデリックは名俳優として名を上げている。ガランスは伯爵がパトロンとなり、世界中を旅したりして、美女としての魅力がより強くなった。
ただし悪人(ピエール)だけは何も変わらず、盗みや脅迫や殺人を繰り返しているようだった。古着屋も昔のままだ。
 
フレデリックが作家たちの脚本を完全に無視して暴走する様も面白い。
 
警官に追われるフレデリックが観客席にまで行って、警官に脚本通り詰められるが、フレデリックは演劇用の銃を撃ち、「倒れろ 馬鹿 死んだんだぞ」と言う。すると警官が倒れた演技をする。
極めつけは、「この事件の犯人、それはあの作家たちです」と、観劇していた作家三人組を指さす。とても面白いメタ演劇だ。
 
時間は飛んで、
フレデリックは、ガランスがお忍びでバチストの演劇を見に来ていたことをバチストに伝える。バチストはあの洗濯物のシーンと同じ目、遠くを見ているような、何も見ていないような、見えない何かを見ているような目をする。それをナタリーも見ていて、また「バチスト」と呟く。バチストは駆け出していた。
 
バチストとガランスは再会を果たす。窓の外のバルコニーに出る。もはや言葉はいらない。口づけをする。
 
その窓一枚を隔てた場所で、伯爵、フレデリック、悪人、その他の人々が談笑している。すると悪人は、「見せてやる」と言って愛と真実カーテンを開ける。伯爵、フレデリックは全てを見る。
 
バチストとガランスに振り回される人々の中で、最も可哀想なのは、やはりナタリーだ。
最後にはバチストとガランスがバチストの部屋の中で密会しているのをドアを開けて見てしまう。
 
しかしナタリーは、バチストを責めない。ただ本当のことさえ知ることができればいい、という形で質問を繰り返す。だが責めているわけではない。ナタリーはバチストを愛しているし、理解しようとしているのだと感じた。
 
 
 
 
 
【深い面白さ】
 
上記の通り、天井桟敷の人々には語ろうと思えば誰にでも語ることが出来る、「浅い面白さ」を持っている。だが本当に面白い理由は、その奥底に、「深い面白さ」が無限に眠っているからだ。人生そのものが眠っている、と言ってもいい。
それらのことについては人生を考え抜くことと同じであり、私は死ぬまでこれらのテーマについて考え続けることになるだろう。
 
・まず、言葉選びや単語、哲学が全て良い。古着屋の戯言まで全て面白い。
「愛し合う者同士にはパリも狭い」、この映画を代表する名台詞だが、このような台詞だけで作品が構成されており、異常だ。
 
・無名の者たちが才能を見出され、階段を駆け上がっていく。成功するということについて、深く考えざるを得なくなる。
 
・変わってしまう人と変わらない人の中の、変わらない部分と変わってしまう部分。これもまた深い。
 
・仕事や金や地位が人を変えてしまうこと。何が人を変化させるのか。
 
・家族が出来て仕事も成功しているのに愛する女を想ってしまうということ。愛とは何か。
 
・感情と感情、思考と思考のぶつかり合いは、決闘で果たさなくてはいけないということ。決闘は現代日本では違法だが、それならば、決闘ではない別の何かに置き換えて、決闘するしか解決の道はない。戦いは、避けては通れない。
 
とにかく天井桟敷の人々は軽い娯楽が好きな人間にも深みのある人間にも通用する守備範囲の広さと言うか、何故天井桟敷の人々が今でも観られているのかが良く分かった。
 
追記
決闘や戦いは人間同士には必ずしも起こりえることだ、と書いたが、現代の流れからしてそれは間違っている、と考えを改めた。違う物の考え方同士であっても、どちらも存在していて良い。どちらかしか存在できないとか、どちらが上かというのは、古いものの考え方で、貧しい。どちらも等しく存在していて良いのだ。